『鮎釣りの思い出』


 初めてアユを釣ったのは、高校2年の時、当時たしか「渓研会」と言うお医者さんや自営業者有志で琵琶湖の稚鮎を放流していた山形市内を流れる馬見ヶ崎川で、川遊びをしながらガラガケや友釣りのまねごとをした程度だった。
でもその時の鮎の美味さは当時もう釣り天狗になっていた私たちの獲物である岩魚や山女魚(後の放流によるもので、その頃まだ山女魚は馬見ヶ崎川には居なかった。)や水鏡で突いて捕るカジカなどとは比べようも無いほど旨かったのは今でも覚えている。

その後上京して、ほとんど釣りから離れて横浜や新宿や池袋で遊び呆けていたが、 帰郷して当然のように昔から釣り仲間だった奴らと岩魚や山女魚釣りを再開し、以前にも増して渓流釣りにはまって週に7日釣りをしていて、シーズン釣果は3000匹前後とあまりの釣果を聞きつけた料理屋さんに魚を卸すような生活を続けていた。時折鮎の事がチラついた事もあるが魚が小さいので岩魚や山女魚釣りを止めてまでやろうとは当時は思わなかった。
しかし、料理屋に売り始めた天然岩魚や山女魚の相場は、当初100g 280円だったのに25歳の頃から養殖が確立し値下がりして100g100円を切っても天然鮎は100g 500円をキープしていて岩魚や山女魚を売りに行った時、料亭の主に「鮎ならなんぼでも高く買うんだけどなあ。」と言われて悔しかったのと行きつけの釣具屋の親父や常連に川釣りは鮎釣りが出来ないと一人前じゃないと言われたのがきっかけで負けず嫌いな性格からムキになってやり始めた。

長竿を持っていなかった私に渓流竿でもアユが釣れる川があると教えてくれた年配で裏社会でも大物の師匠がいて、手取り足取り教えてもらった1回目が15匹、2回目が52匹、3回目が72匹と鮎を遊ばせながら釣り下るだけの拾い釣りだが、自分でも驚く程の上達ぶりで釣果を見せるまで師匠にも信じてもらえなかった。当時まだ引き寄せ取り込み全盛だったのに、釣り雑誌で見ただけで関西の鮎名人『村田満氏』の引き抜きをまねてやって見たら(1984年頃まで山形ではぜんぜんやる人はいなかったので、当時は最上小国川などギャラリーが多い有名河川では引き抜きをしただけで拍手される程だった)、普段何でも無くやっているテンカラ釣りの引き抜きのスピードよりはるかに遅いので簡単にタモで受けることが出来た。

いよいよ鮎釣りにも自信を持ち、とにかく数を釣るのが面白くて隣県の秋田・宮城・新潟と条件の良い川を求めて何処までも釣りに行き、朝薄暗い内に川に入り、夕方ヒグラシやカジカ蛙の声を聞きながら竿をたたむような友釣りを続けていたが、最後に着替えして川に裸で飛び込み心地良く汗を流したあと囮缶の水を切り大小見境無く釣った大漁の鮎をクーラーに移す時、満足感と帰宅してから仲間へ自慢出来る優越感で帰りの運転中までワクワクするほど楽しかったし、1日の釣果60匹〜100匹超、2キログラム〜8キログラムを売れば初期の小型鮎で1万〜盛期や終期の大型鮎なら4万円の収入になった。 

あの頃、毎日のように一緒に釣りをした釣友であり、渓流釣りや鮎釣りの良きライバルだった頼りがいのあるタフな男も、ガンには勝てず今はもうこの世には居ない・・・。

鮎釣りを教えてくれた不死身の大物師匠も亡くなり、慈善的に鮎を放流してくれていた渓研会諸先生や楽しく一緒に釣りに行った先輩釣り師もほとんど他界したり、穏やかな余生を送っていらっしゃる。そして私は、朝早くから鮎釣りで川に入る事も少なくなり、夕日が落ちるほど薄暗くなるまで一心不乱に鮎釣りをする事も無くなった。
命が惜しくてタバコもやめた。全てが若かった遠い夏の日の思い出である。
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